目的と手段と愛着

こんにちわ、金沢です。

通勤中の相棒であるipod nanoとの付き合いが、
ついに10年目に突入しそうです。

高校に上がり、初めてのバイトをし、初任給での買い物でした。

憂鬱な通学時間も、好きな音楽が聴ければ一日の活力を蓄える時間となりました。

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ただ考えてみると、好きな音楽が僕を元気にしてくれているのであって、
別にこのipod nanoが元気にしてくれているわけでないのですが・・・
いったら、好きな音楽の入れ物でしかない・・・
それでいて10年前のものらしく2GBという容量の少なさ・・・

それでも、聞く音楽は年齢とともに変わっていくなかで、
こやつだけはいつも変わらずにポッケの中で、音楽と僕を紡ぎ続けてくれます。

音楽を聴くという目的の手段のものでしかなかったけど、
その目的よりも大事なものに生まれ変わるような、
そんな期待をしつつ10年目を迎えたいと思います。

今日は黄色い猿を聴きながら帰ろう。

金沢

あんさん、ニッポン人

こんばんは。原です。

自分が日本人であることを意識する時が、普通に生活している中で、果たしてどれくらいあるだろう?

ある海外小説を読み終え、多国籍な物語の有り様に思いを馳せていたら、そんな疑問が湧きました。
国内に居るうちは、そんな状況幾らも無いなと思っていたのですが、案外そうでもない事に気づきます。

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電車で乗り合わせる人は大概、ハングル、繁体字、簡体字の表示されたスマホをいじってますし、街で飛び交っている言葉、看板に表示されている文字も日本語とは限らない場合が多いです。(住んでいる場所が場所だけに、というのもあるのですが…)
周りを見れば見るほど、東京は日本の一部というより、アジアの一部といった印象が強いですね。

その他にも、言語の違いだけでなく、肌の色、骨格の違いが、その人が日本人でないこと、自分が日本人であることを自覚させてきます。

「他人と比べたら、どうやら自分は日本人らしい。」

この言い方、何だか引っかかるんですよね…。変な感じがします。軸が無いような、中心が無いような。
比べるでなし、もっと内発的、自発的な理由があってもいいような気がするのですが…。
比較対象がいないと僕らは“日本人”を保てないのでしょうか?

ある先生は「辺境人」と日本人の事を言い表しましたが、この表現に近い力が働いているように感じます。

何だかモヤモヤ、スッキリしない。
こういうの、根が深いんですよね…。
また変な引っ掛かりをこさえてしまった。
帰ってはよ寝よう。

ブログ

こんにちは、増田です。

新年あけましておめでとうございます。
本年も、篠崎弘之建築設計事務所、そしてスタッフブログ共々、よろしくお願いいたします。

このブログも開始からもうすぐ1年が経ちます。
「文章を書く」という行為は、当たり前にできるようで、意識するととても難しいものでした。

自分が良いなと思う風景や考えを正確に伝えたい時、
どんな言葉を選び、どんな順番で並べ、どれだけ余白をつくるか、抽象か具象か、すごく悩みます。

反対に、正確な言葉選びをするために、細部まで風景を注視する癖がついてきたような気がします。

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まだ小学生だった頃、国語辞典をパラパラと捲って、知らない言葉に出会った時、
なんだか新しい風景に一歩踏み出したような感覚になったのを今でも覚えています。

風景が先にあるのか、言葉が先にあるのか、分からなくなってしまうような不思議な感覚でした。

表現したい風景が明確であることで、自ずと言葉が導き出されたり、
逆に色んな言葉を知っていることで、表現できる風景の選択肢が広がったり、
その間を行ったり来たりしながら一つの文章に収斂させていく様は、
まさに建築を設計しているのと同じ感覚に思えます。

設計の練習だと思いつつ、
今年も一字一字を大切に、ブログを更新していきます。

増田

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