建築士と建築家

こんにちは、増田です。

長らく更新を怠っている間に、
ブログを書いている今、ついに大晦日の夕方を迎えてしまいました。

今年も様々なプロジェクトと素晴らしいお施主様に恵まれ、
スタッフとしても大変素晴らしい経験に溢れた1年となりました。

1年目である昨年は、まさに図面の書き方や設計の基礎にどっぷり浸かる鍛錬の年でしたが、
2年目である今年は、図面に描いたものが初めて実物となり世に放たれていく実践の年でした。

この1年で何が成長したかはまだ整理できていませんが、設計図が立体になる、
という流れに触れて建築の見方は少し変わった気がします。
世の中がどのように出来ているのかが知れると、何気なく街を歩いているだけでも細部や仕組みに注目するようになり、今まで見ていたものも全く新しい世界のように思えて楽しいです。

僕は大学と大学院の6年間で建築を学んできましたが、
実際に社会に出てみるとまだまだ学ぶべき事は多く、果てしなく遠い道のりのように思えます。

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学生の頃の課題というのは、お施主様の存在も架空のもので、
学生特有の若さもありカッコよくて新しい可能性や思想をもった建築ばかりを思い描いていました。
いわば、建築という学問を発展させる為に存在するような「建築の為の建築」をつくるような感覚でした。

今は実際にお施主様が居る事や、設計したものが現実のものになるという事もあり、
「生活の為の建築」を強く意識するようになりました。

ですがそれは、学生の頃学んできたようなコンセプトや思想を「夢見がち」として捨て去った凡庸な建築や、
逆に最低限の生活しかできないような建築家の実験的な建築という意味でもなく、
必要十分な生活を保証し、かつ建築的な新しさが、生活にも新しさや発見をもたらす事に直結している、
という意味で「生活の為の建築」という風に考えています。

リビングも、中庭も、家具も、階高も、光も影も、海も山も街も、はるか昔から存在するものですが、
私達が建築を作る事によって、
そんな当たり前すぎて深く意識する事も無くなってしまったモノに潜む、
新しい魅力や可能性に気づかせる事ができたならば、これほど嬉しい事はありません。

そういう意味で、好き勝手やってきた学生の頃とは比にならないぐらい、
建築がそこに存在すべき理由に現実味が求められます。
それでも、そこに怖気ずに、6年間学んで得た思想や考え方を流されないようにしたい、と思いました。
その上で次々と新しい経験や考え方を積み重ねていきたいです。

おそらく建築は、思想やこだわりなど無くとも、
それなりの経験と知識と資格さえ持ってしまえば、だれでも設計する事ができると思います。
無難に家を設計する、という仕事の仕方もあるのかもしれません。

だからこそ、
そこでこだわりや思想を捨てずに持ち続けられるかどうかが、
その人を建築家と呼ぶか建築士と呼ぶかの境目なのではないかと思います。

僕はまだスタッフという未熟な身ではありますが、
それでも意思を持って建築設計に挑み続けたいです。
スタッフなのに建築家みたいですね!と呼んでもらえるように。

そのような姿勢で、来年も頑張ります。

増田

行為の足跡

こんにちは金沢です。

冬なりかけですね。
この時期は油断してると風邪すぐ引いてしまう気がします。

しかしながら、こんな時期でも水を使わなければいけない時がある訳で・・・
そんな時は昔からこのホースがお友な気がします。

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床に垂れたホースの無作為にテローンとした感じが個人的には何故か愛しくてたまりません。
残り水が垂れてると、なお愛おしいです。

水撒きという行為を満たすため、
紐形状と軟質素材という要素が合わさって生まれる、ホースという自由な線。

それは誰かが水を撒いた、その足跡ともなるような気がします。

必要条件がいつの間にか十分を生み出す。
ミニマルな考えというのはなんか得した気分になりますね。

では

フユノウラハラ

こんばんは

原です。

久しぶりになってしまいましたが、皆様如何お過ごしでしたか?
ほんの少し前まで夏真っ只中だったような気がするのですが、、あっという間に寒くなってしまい、いよいよあの冬になろうとしている、そんな時分ですね。

東京の冬はどことなくピンと張り詰めているような雰囲気があり、とってもクールに思えます。
コート姿の群衆が、駅構内を急ぎ足ですれ違い、等間隔に連続する蛍光灯の青白い光が、それぞれの行先をどこまでも均一に照らしています。
そんな「冷たさ」のある風景がよく似合う季節です。都市が創りだした風情ですね。
もちろん、炬燵にみかんもいいのですが、そういった「暖かさ」の裏に確かに存在しているものです。

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ネガティブさが少し香ってくるような風景も、構築された状況が創り出している一つの美であることを、
悲しくも素晴らしく思うのです。

ではでは

当たり前のことの見方

こんばんは福村です。

最近は少し肌寒くなってきましたね。
とうとう秋本番かな?と思っていると暑かったりもしますが

自分もそうですが、みなさん体調には気をつけてくださいね。

さて秋といえば、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋など
盛りだくさんな季節でもありますが、この並びをみると

季節が関係あるのだろうかというぐらいすべての要素が入っているように思います。
食べるし、本を読むし、運動するし、芸術もたしなむ。

さらに言えば、文化祭や運動会、合唱コンクールなどもこの季節に含まれ
秋ってほかの季節より優遇されてるな、なんて思ってしまいます。

ほかの季節にも分けてあげればいいのにと、たとえば
スポーツの夏、読書の春、芸術の冬。。。わかってはいましたがしっくりこないものです

このような特に理由は知らないけど、言葉のまま受け入れてる事柄って結構あるような気がします。
なぜかその言葉がしっくりきていて自分の生活がそれに従って動いていたりしませんか?

しかし、そのような当たり前の事を疑ってみたり、確認してみたりすることが何かのきっかけになるんじゃないかなど…
当たり前の事とは自分を縛っているものであり、枷であり、そこから解放されることで新たな発見や変化につながるかもしれないなどと妄想したりしています。
当たり前が当たり前じゃなくなるとき。当たり前がなぜ当たり前か気づいたとき。なにか見えてるものが変わるかもしれませんね。

当たり前がない建築。

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ここにはどんな当たり前があるんでしょうか

まだまだ考えられることはたくさんありそうです。

最後に、Pinterestに続き、Instagramも始めました。
篠崎事務所のプロジェクトや事務所の雰囲気など発信できたらなと思います。
よろしくお願いします。

https://instagram.com/hiroyuki.shinozaki.architects/

都市の礎

こんにちは。増田です。

連日大雨が続きましたが、皆様ご無事でしたでしょうか。

事務所のある代々木公園は大きな池が出来る程の雨量でしたが、
今日も遠方の水害の後遺症が報道されていて、東京と比較にならない程大変な状況である事が伺えます。

狭い島国である日本は、山も川も海も街も全てが近接しながら存在しています。
それが日本の個性であり魅力ですが、街が自然災害に見舞われやすいという事もまた事実です。

そう考えると、自分は建物の中で過ごしているのではなく、
もっと大きな環境の中で過ごしているんだな、という事を意識させられます。
近所の川や山、公園、商店街、駅、学校、色々な物に囲まれていたんだなと。

「この街に住む」とはつまりどういう事なのだろう、と考えさせられます。

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ある会社の信念となる言葉に「共に生きる」というものがありました。

「部屋に住んでいる」と考えるか「街に住んでいる」と考えるかの差はまさに、
この街で誰かと/何かと共に生きているかいないかの差、ではないかと思いました。

山と生きる、川と生きる、人と生きる、etc…

極端に言えば、牢屋のように堅牢な建物は自然災害にも強いですし、
そこに平らな床さえ有れば、仕事も食事も睡眠も困りません。

ですがそのような合理的すぎる建物は、どんな場所に建つかなんて関係ない、
自然や近隣の存在なんて少しも感じない、孤立した寂しい建物になってしまうでしょうね。

まちに開かれた大らかな建物があり、上には働いている人の姿が見え、
下には遊びに来た大人や子どもがワイワイお茶していて、時々目が合ったりして、
お昼には美味しい焼肉屋さんがお弁当を届けに来て、おめでたい日にはお花屋さんが来て、
夕方には遠くの山々を眺め、祝日には祭りをやって…

そんな風に、街のあらゆる存在が集まって交差していくような
ターミナルになる建築が有るといいな、と思っています。

自分がその街に住んでいる事を楽しい・誇らしい・アイデンティティだと感じる事も、
何か起こった時に互いに助け合えるかどうかも、
ますは「住んでいる街を知る」という事から始まっているような気がします。

建築を設計する立場ではありますが、建築単体だけでなく、
その外側へも意識を向けられるようなものをつくりたいです。

増田

あの日の青

こんにちわ、金沢です。

残暑が厳しいですね。
子供の頃はこんなに暑さを気にしたことなんてなかった気がするのですが・・・

子供のころと何か変わったのかと言われれば、
何も変わってないのでしょうけど、
夏の過ごし方は変わった気がします。

外で遊んでいた小学生と違い、
涼を求めて図書館へ行ったり、
花火はやって楽しむものから、
見て楽しむものになり・・・

だからか、
個人的に夏は1番ノスタルジックになる季節です。
ふと上を見上げて、
あの日のような青があるだけで懐かしい気分になります。

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こんな風に、
子供が育っていく中で思い出が生まれ、
将来ノスタルジーを感じるような住宅を設計していきたいものです。

ミラノ所感

こんばんは

原でございます。

今はお仕事でミラノに来ています。

今回が初のイタリアです。なかなかに刺激的な日々を過ごさせてもらっています。
世界史の教科書や映画、ゲームの中でしか見たことのなかった世界が、まさに今目の前に広がっていることを思うと、それだけで胸が一杯になります。
ありきたりな感想ですが、海外の経験が浅い私としては、それが正直なところです。

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ヨーロッパ自体が歴史建造物の宝庫ですが、もちろんミラノも例外なく、
ドゥオモ、ガレリア、スカラ座…etc と、数多くあります。
しかしながら、ミラノは建物と共に伝統的なライフスタイルが確かに存在していながら、“モダンさ”を多く感じ取る事ができます。
ファッションやインテリア等のデザインやアート的な要素が多い街で、本当に刺激的です。

どうにもイタリアと言うと、フィレンツェやローマのような歴史観溢れる街を最初に想像してしまいますが、
それらとはまた違い“現在”を生きるイタリアの街を、ミラノは体現しているような…そんな印象があります。

知らない事だらけのイタリアですが、これをいい機会に、色々なものに触れてみたいですね。

明日は打って変わり“都”の方へ行って参ります…

街と銭湯

こんにちは。福村です。

最近1日、1週間、1ヶ月がものすごく早く感じます。
充実しているからなのか、時間を意識しているようでしていないのか。
この経験は皆共通に持っているものでしょう。

だからこそ丁寧に生きていきたいですね。

さて、自分は最近銭湯にはまっています。

きっかけは通っていた大学のシャワーの故障だったのですが
それからというもの良さそうな銭湯を見つけては電車で乗り継いで行くほどになりました。

銭湯遠征です。

どこの銭湯も多くの人が利用しているということです。やはり日本の文化は根強いのでしょうか。

色んな場所に行くと、それぞれ雰囲気も違いますしとても楽しめます。
そこに行くまでの道のりから、お湯の温度やバリエーション、脱衣所の広さ
、混み具合、空間の雰囲気など自分の好みが徐々にわかっていくのも楽しみの一つです。
今は炭酸風呂に長く浸かるのが好みです。ジワジワきます。

また、おもしろいことに街と銭湯の雰囲気はとても合っていて、
駅に降り立った瞬間から銭湯の体験は始まっているのかもしれません。
銭湯と街は深い関係がありそうですね。

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そんなことを考えながらも、
以前16時ごろにいく機会があり銭湯の一番風呂を体験したのですが
この大衆のための空間を自分が占有している感覚は最高でした。
誰かが入ってきた瞬間崩れ去りますが、なかなかない体験なので、
是非みなさんも銭湯の一番風呂を経験してみてはいかがでしょうか?クセになります。

まだ都内の銭湯しか回れていないので、全国の銭湯を経験し、そしていつか銭湯の設計もしてみたいものです。

それでは。

精度と質感

こんにちは、増田です。

今年も1年の半分が終わりました。
少しづつ夏らしさが増しつつも、まだまだ梅雨が明ける気配はなさそうです。
ただ私は雨が好きなので、しばらくはこのままでもいいかな、と思っています。

雨の日の唯一の悩みは湿気です。
これによって、髪の毛と事務所の模型がうねりだします。
精度よく作られた模型達も素材は紙なので、反ったり剥がれたり、一溜まりもありません。

模型の精度が落ちると、そこから受ける質感の印象も随分と変わります。

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認知心理学では、人がある物質Aを見て「これはAだ」と知覚する時、そのヒントになるのは、
その物質のもつ肌理なのだといいます。
例えば本物の花と造花を見分ける時、微妙なツヤや凸凹や厚みを手掛かりに本物を判断しています。

建築にも、本物の石を使った壁材があれば、石を模した極薄のシートがあったりします。
正面から見ると同じに見えても、横から見るとその薄さが分かり、そこで初めて「シートだ」と知覚します。
土壁調の壁紙も、少し角がペロッと剥がれているだけで「土ではない」「薄い」という感覚を得ますよね。

この原理は、建築模型も同じです。
接合・ノリ付け・水平垂直が徹底して綺麗に作られた模型は、覗き込んでみると
「これは模型だ」という感覚を超越して、本当に建築の中に入ったような気分になります。

接合部に隙間があったり、壁紙がちょっと剥がれたり、糊がはみ出ていたりすると、
「紙だ」「ノリだ」と、一気に模型っぽさが出てきてしまいます。

製作の精度によって、紙が紙以上の質感を獲得する。

普段模型を綺麗に作ろうと努力するのは、お施主様への誠意の表しと同時に、
模型がどこまで実際の建築に近づけるか、通常の質感がどこまで異質になれるか、
ということへの挑戦でもあるような気がします。

増田

プラットホーム劇場

こんにちは、金沢です。

6月に入り、電車の定期を変えました。

今までは乗り換えなしを優先してたので、
事務所から少し遠い駅を利用していましたが、
梅雨入りのため徒歩1分の駅から乗り換え1回の経路へと変えました。

そうなると家から出て電車に乗るための駅も変わりまして、
今までと違う風景を見ながらの通勤は、
おそばせながら新生活気分になります。

ただ、以前に比べて電車を待つ時間が長い。
ほんの10分、されど10分。
取り敢えずベンチに座って、向かいのプラットホームをぼーっと眺めるしかない。
・・・個人的には意外と好きな時間ですw
プラットホームの居心地みたいなものが昔から好きなんですよね。

そんな僕の周りには、
ホームをスタスタ歩く人、
ガタンゴトンと通過する急行電車、
隣のベンチでいちゃつくカップル。

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舞台のように横長な場所で展開する、
通過と滞在が交錯し合って織り成す、
矛盾したリアルな風景。

そんなところに何か引かれているのかもしれないと思います。

では

所在なき空白

こんばんは。
原です。

暑くなってきましたね。
このまま梅雨へと寄り道しながら、夏までゆるりと蛇行運転ですよ。

さてさて、巷には新生活が始まって2ヶ月が経とうとしてる人たちがいると思いますが、
僕は春に新居へ引っ越しまして、今では友人たちと3人で共同生活です。

いわゆる“ルームシェア”ってやつですね。

どうですか?“ルームシェア”。経験ある方いらっしゃいますか?
シェアハウスとかカーシェアリングとかなんとか、“シェア”は最近は流行りのような傾向もありますが、昔からある行為ですよね。楽しい反面、苦労もあります。一人でいるときに比べたら格段に気を遣う機会が増えますからね。気になる人はかなりしんどいと思います。あと“一緒に何かをする”ことに価値を感じられないと、とてもじゃないけどやっていけないです。ある程度「気を遣わない」タイプの人が向いているかもしれません。多分。。。

シェア前提で物件を探すと、それに向いた部屋の少なさに気づきます。
個室の広さに差が出たり、脱衣所経由じゃないとトイレに入れなかったり、ある部屋だけ収納がなかったり←僕ココ 、お金を積めば幾らか出てきはするのですが、結局のところ、どこかでガマンしないと、自分の希望と物件の条件との折り合いがつかないんですね。。

暮らしていて感じるのは、間取りに対してかなり無理をしているような感じがする事です。
3DKに強引に暮らしているので仕方がないのですが、、
上手いこと互いをつないでくれるLの部分(不動産用語で言うところの)が無いのが、かなり窮屈な思いをしている原因ですね。現状、4帖程のDがL的に使われています。なかなかキツイものがありますねぇ。

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そもそもLって何ぞやと考えます。皆の言っているLivingとは一体全体何ぞやと?その存在はかなり曖昧で、フワフワしています。でもとっても大事な部分な気がする…。その価値はこのルームシェアを通して学べるかもしれません。

「Living(?)無しの生活」

自分の身体で実験です。

ミラノ紀行1

こんにちは。増田です。

長い長いミラノサローネ出張から帰ってきて、日々時差ぼけと戦いながらいつもの日常を過ごしています。

イタリアには約1ヶ月近く居て、設営や展示の合間にすこしづつ街を散策してきました。
ミラノの街は、サローネ会期中だからかそれともお国柄か、毎日がお祭り騒ぎのような雰囲気でした。
陽が長く夜9時過ぎまで外が明るいので、大人も子供も遅くまで遊んでいて、なんだか異様な光景でした。

今回僕は人生2度目の海外、そして初めてのヨーロッパでしたが、
日本とヨーロッパの都市の構成の違いには多く刺激を受けました。

古い町並みなので素材も構成も昔ながらで、街中に広場があるというのも日本にはあまり無いですし、
なにより建築がパラパラと集まって出来る日本の都市と違い、城廓や街路が先立って建築が出来るので、
スパッと石を削り出したように、綺麗な町並みが自然と出来上がっているのです。

外壁面が綺麗に揃っているので、大通りに夕日が差してきた時も、ズバッと奥まで綺麗に光が届きます。
日本だと影の多い所やよく陽の当たるところがガタガタと疎らになるのが普通ですね。
建物も石積みで壁の厚い重厚な物が一般的なので、軽やかな日本の建築とは印象が全然違います。

日本とは全く違う美の感覚に出会ったような気がします。

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私たちが建築を設計する際に「良いか悪いか」を判断する時、その根拠は大抵、
今ままで受けて来た建築教育や長年の内に身につけた経験に基づいています。
その一方で、建築とはまだ無縁だった幼い頃の記憶や体験に結びついている心象もあります。

手に染み付いた実家の玄関の取っ手の微妙な曲線の感覚、事ある毎に家族で記念撮影をした庭の木、
ワックスの剥がれかかった階段のオーク材の柔らかな艶、怖いけど神聖な感じがした薄暗がりの部屋の窓。

そこには何一つ特別なものはなくて、どれもが極自然にそこにあって、でもだからこそ、
あの階段や木が、私の中の美しい階段や木というものの典型や原点として、
いまも判断の基軸になっているのだと思います。

そしてそういうモノが日本的に作られているから、
私達は自然に日本的な感覚を体得して基軸にしているのでしょうね。
良いと思う物は大抵、どこかに懐かしさの様な感覚を孕んでいるのかもしれません。

今回イタリアで感じた美しさの感覚は、まさに建築の専門的知識として新しいだけでなく、
そういった幼い頃の記憶の中でも一度も体験した事の無い、懐かしさの無い、
まったく新しい感覚のように思えました。

この刺激が、自分の善し悪しの感覚をどれほど揺らがしていくのか、楽しみであり、怖いところでもあります。

増田

コンクリートブロックは住宅の夢を見るか

こんにちは、金沢です。

休日の地元にて地層のようなコンクリートブロック達を発見しました。

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つたない記憶をたどれば、
確かここにはいくつかの住宅があったけど、
遊歩道政策により追い出されたような・・・気がします。

でも、敷地境界線上にあるがゆえに取り残されたこやつらは、
今でも住宅だという夢を見続けているようです。

コンクリートブロックが夢から覚めて、
また住宅になる日は来るのでしょうか?
くるんでしょうね、そろそろ。

では

金沢

春眠暁を覚えてくれ

こんばんは。
原です。

ブログ更新も久しぶりになってしまい、楽しみにしている方々には申し訳ないです。

この設計事務所に来て1年が過ぎました。

できるようになった事が多くあるのは、もちろん嬉しい限りですが、
できたはずなのにできなかった事に対する反省が、ぐるぐる頭を巡っているのもまた事実です。
しかしながら、学生時代みたいにいちいち引きずりまくって、引きこもっている時間的な余裕は無いので、これからもめげずに頑張りたい所存です。

さてさて、桜も咲いて、いよいよ本格的に春ですが、私は春が苦手でして、、
というのも、フィジカル的にもメンタル的にもなかなか自身のコントロールが効かなくなるからです。
変に陽気になったり、陰鬱になったり、柄にもない事をやり始めようとか考えちゃったり、、とにかく平常運転がしづらい。
普通の一日にしたい筈なのに、毎日がハレのようで、逆に疲れるこの感じ…。

特別は、ありふれていないからこそ特別ですからね、、

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何でもない  繰り返されるこの春を  あなたはいかがお過ごしか?

ではまた

素材と空気感

こんにちは。増田です。

最近は通常の設計活動の傍ら、
4月に開催の世界最大の国際家具展覧会「ミラノサローネ」でのインスタレーションのために、
慌ただしく動いております。

つい先日、その制作をお願いしている「広松木工」さんの工場へ1週間ほど出張へ行きました。

福岡県の大川という町にある家具屋さんなのですが、
スッとした美しい佇まいの中に、どこか懐かしさや愛らしさをもった家具を作っています。
今回の展示はまさに、その繊細な技術や圧倒的な木の知識、家具への愛、すべてを頂いて出来ています。

東京生まれ・東京育ち・事務所一沈黙の多い自分が、血気盛んな九州へ出張なんてと思いましたが、
福岡生まれの人というのはとても大らかで、毎日工場を見学させてもらったり、
毎晩尋常ではない量の美味しいご飯とお酒をご馳走になって、とても充実していました。

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面白かったのは、毎日違う人と話すのに、皆同じ事を話すことでした。
中でも印象的だったのは「家具から建築を作ってみたい」ということ。

建築は家具を納めるための箱ではないことを、
家具は家具だけでは成立しないことを、強く意識させられたような気がします。
そして単にレイアウトの話でなく、素材まで遡る話のように思いました。

「木を(自然素材を)使う=ぬくもりがあってやさしい」
もはや無批判に直結してしまうぐらい自然なイメージですが、これは本当にそうなのでしょうか。
木を使えばなんとでもなるのか。いやきっとそうではない筈で。

私は、素材そのものが暖かさや懐かしさを帯びていたり詩的であるわけではないと時々思います。
その点で、広松木工さんの家具に感銘を受けるのは、
やはり素材が的確かつ感覚的に用いられているからです。

ある特定の状況の中で、
その構成でしか、そのように用いることでしか作れない状況に特定の素材が置かれた時、
素材は初めて特別で詩的な意味を放ち輝き始めるのだ、と教えられている気がします。

家具の素材、素材と素材の接合部、家具の構成、家具と壁の関係、壁の素材、壁と床と天井の接合、
部屋と部屋の構成、建築全体の構成、建築が置かれる敷地環境。
すべての細部が全体の中で意味の繋がりを持った時、そこには「家具と建築」という呼び分けは不要かもしれません。

そんな緊張関係をもった状況をつくるには、まだまだ経験が足りないなと思う福岡の酔いの夜でした。

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