思考

フユノウラハラ

こんばんは

原です。

久しぶりになってしまいましたが、皆様如何お過ごしでしたか?
ほんの少し前まで夏真っ只中だったような気がするのですが、、あっという間に寒くなってしまい、いよいよあの冬になろうとしている、そんな時分ですね。

東京の冬はどことなくピンと張り詰めているような雰囲気があり、とってもクールに思えます。
コート姿の群衆が、駅構内を急ぎ足ですれ違い、等間隔に連続する蛍光灯の青白い光が、それぞれの行先をどこまでも均一に照らしています。
そんな「冷たさ」のある風景がよく似合う季節です。都市が創りだした風情ですね。
もちろん、炬燵にみかんもいいのですが、そういった「暖かさ」の裏に確かに存在しているものです。

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ネガティブさが少し香ってくるような風景も、構築された状況が創り出している一つの美であることを、
悲しくも素晴らしく思うのです。

ではでは

素材と空気感

こんにちは。増田です。

最近は通常の設計活動の傍ら、
4月に開催の世界最大の国際家具展覧会「ミラノサローネ」でのインスタレーションのために、
慌ただしく動いております。

つい先日、その制作をお願いしている「広松木工」さんの工場へ1週間ほど出張へ行きました。

福岡県の大川という町にある家具屋さんなのですが、
スッとした美しい佇まいの中に、どこか懐かしさや愛らしさをもった家具を作っています。
今回の展示はまさに、その繊細な技術や圧倒的な木の知識、家具への愛、すべてを頂いて出来ています。

東京生まれ・東京育ち・事務所一沈黙の多い自分が、血気盛んな九州へ出張なんてと思いましたが、
福岡生まれの人というのはとても大らかで、毎日工場を見学させてもらったり、
毎晩尋常ではない量の美味しいご飯とお酒をご馳走になって、とても充実していました。

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面白かったのは、毎日違う人と話すのに、皆同じ事を話すことでした。
中でも印象的だったのは「家具から建築を作ってみたい」ということ。

建築は家具を納めるための箱ではないことを、
家具は家具だけでは成立しないことを、強く意識させられたような気がします。
そして単にレイアウトの話でなく、素材まで遡る話のように思いました。

「木を(自然素材を)使う=ぬくもりがあってやさしい」
もはや無批判に直結してしまうぐらい自然なイメージですが、これは本当にそうなのでしょうか。
木を使えばなんとでもなるのか。いやきっとそうではない筈で。

私は、素材そのものが暖かさや懐かしさを帯びていたり詩的であるわけではないと時々思います。
その点で、広松木工さんの家具に感銘を受けるのは、
やはり素材が的確かつ感覚的に用いられているからです。

ある特定の状況の中で、
その構成でしか、そのように用いることでしか作れない状況に特定の素材が置かれた時、
素材は初めて特別で詩的な意味を放ち輝き始めるのだ、と教えられている気がします。

家具の素材、素材と素材の接合部、家具の構成、家具と壁の関係、壁の素材、壁と床と天井の接合、
部屋と部屋の構成、建築全体の構成、建築が置かれる敷地環境。
すべての細部が全体の中で意味の繋がりを持った時、そこには「家具と建築」という呼び分けは不要かもしれません。

そんな緊張関係をもった状況をつくるには、まだまだ経験が足りないなと思う福岡の酔いの夜でした。

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あんさん、ニッポン人

こんばんは。原です。

自分が日本人であることを意識する時が、普通に生活している中で、果たしてどれくらいあるだろう?

ある海外小説を読み終え、多国籍な物語の有り様に思いを馳せていたら、そんな疑問が湧きました。
国内に居るうちは、そんな状況幾らも無いなと思っていたのですが、案外そうでもない事に気づきます。

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電車で乗り合わせる人は大概、ハングル、繁体字、簡体字の表示されたスマホをいじってますし、街で飛び交っている言葉、看板に表示されている文字も日本語とは限らない場合が多いです。(住んでいる場所が場所だけに、というのもあるのですが…)
周りを見れば見るほど、東京は日本の一部というより、アジアの一部といった印象が強いですね。

その他にも、言語の違いだけでなく、肌の色、骨格の違いが、その人が日本人でないこと、自分が日本人であることを自覚させてきます。

「他人と比べたら、どうやら自分は日本人らしい。」

この言い方、何だか引っかかるんですよね…。変な感じがします。軸が無いような、中心が無いような。
比べるでなし、もっと内発的、自発的な理由があってもいいような気がするのですが…。
比較対象がいないと僕らは“日本人”を保てないのでしょうか?

ある先生は「辺境人」と日本人の事を言い表しましたが、この表現に近い力が働いているように感じます。

何だかモヤモヤ、スッキリしない。
こういうの、根が深いんですよね…。
また変な引っ掛かりをこさえてしまった。
帰ってはよ寝よう。

年末年始の台所

こんにちは、金沢です。

今年もあとわずか、毎年のことながら1年は早いです。
今年の反省も踏まえつつ、来年も精進していきたいと思います。

で、年末年始。
親戚や友人などの家に行く、逆に家に招くことが多い時期でもあります。
その時にみんなで囲み食べる料理は、なぜだか格段においしい気がします。

そんな料理をつくるキッチン。
この時期だと親戚の方と一緒にキッチンを使ったりと、コミュニケーションの場にもなりますよね。

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料理だけでなく、会話を生む要因になるキッチンって考え方も大事な気がします。

それでは、みなさま良いお年を。

金沢

基軸を変えてみること

こんにちわ、金沢です。

先日電車に乗ってると、
GAPの広告で電車が埋め尽くされていました。

Dress Normalというフレーズや見やすいレイアウト。
GAPのファッション基軸というコンセプトをかっこよく表現している広告群。

その中にblack is a colorというフレーズを発見しました。

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黒いものを思い浮かべるとスーツやインクなどある種のノーマル、基軸となっているものが大半なことに気づきます。
色彩表でも独立軸の頂点に存在しますし、やはり黒は色としても実用性としても基軸と言えそうです。

けど黒も色の1つ、その黒を見直すと訴えるこの広告。

基軸を見直すことは、全体を見直すこと。
基軸を変えれば、全体が変わる。

そんなGAPの野心が見えるような気がします。

自分も建築の基軸を見直してみることにします。

・・・建築の基軸ってなんなんですかね?
そこからかもしれません。

では、また

装飾

こんにちは、飯田です。

肌寒い季節になりましたね。
衣替えをしていると、模様の入った服がいくつかでてきました。
幾何学模様やノルディック模様など装飾は個性を引き立ててくれます。

近所の建物にもバルコニーの手摺や門などに装飾がみられます。
以前にアンティークが流行り、最近ではインテリアにもよく見かけます。

よく見ると装飾は幾何学的に組み合わされ、自然が表現されてます。
現代では装飾を様式として取り入れるのを見かけますが、やはり形にも意味があったようです。

例えばヨーロッパで見た雨を落とす樋は竜の彫刻になっていて、竜の口から雨水を流していました。
その彫刻の正体は大量に水をふくむことのできるガルグイユという竜だそうです。

世界三大巨匠の一人、ル・コルビュジェも雨樋を抽象化し、大きなオブジェクトとして外観で見せています。
しまいには雨樋をプールの滑り台にするほどです。
現代建築では雨樋を隠すよう工夫するところ逆に強調しているという点で、
ガルグイユの系譜を意識していたのかもしれません。

模様は違えど装飾は日本建築にも見られます。例えば懸魚(げぎょ)があります。
屋根の妻面に付けられる魚の尾びれを見立てた装飾です。
これは火事が起きないことを願って付けられているそうです。
この命名と彫刻的なあしらいに日本人の粋を感じます。

そんなことを考えていると、日々目にする装飾が楽しくなりそうです。

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お久しぶりです。こんばんは。
原です。

夏が過ぎようとしています(もう過ぎたのか?)
皆さま、どんな夏をお過ごしになったでしょうか?

私の夏は毎年の如く、当たり障りないもので、何かしら20代なりの若さや輝きを振りまくような、そんな活発な素振りを見せることもなく、約やかに終わりを迎えました。

夏は私にとってSF(主に小説)の季節です。夏の暑い日々はどうにも、いつもぐらぐらでふらふらな興味の行き先を、宇宙とか時間とか、その他何だかよくわからない、未来的なものに仕向けるようでして。この欲求の起源は何なのか、客観的な考察から、推測を試みようとするのですが、途中で飽きて、「まぁ、気分的なものだろう。。」と大した結論も出ず、あてどなく色々と読み漁る今現在に至ります。

今年は例年に無く、多くの作品を読んでおり、小松左京にハインライン、オーウェル、イーガン、バチガルピ。どれもこれもが悔しいぐらいに面白く、読み終える度に毎回打ちのめされたような気分になります。

それらを作り出す圧倒的な想像力、構想力は一体全体何処から湧き上がってくるものなのか不思議でなりません。

普段、建築設計をしている私なのですが、「未来を構想する」という点で、SFは何だか近いような、それでいて果てしなく遠く、一緒のようでいて、一緒にしてはいけない、そんな絶対的な距離、隔たりを感じます。「文字」と「カタチ」の話なので、端から全く別物なのですが、、、「虚構」と「現実」と言い換えてもいいですね。

全く違うが故に魅力を感じているのかもしれません。無意識にバランスを取ろうとしているんでしょうね。

それとも自ら崩しているのか…。

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日々の生活からでは取り入れる事の出来ない、ある種の「毒」を自ら摂取しているような気分です。

あなたにとっての「毒」は何ですか?
お互い摂り過ぎには注意しましょう。

動き

こんにちは、増田です。

個人的な趣味の話になってしまいますが、山によく登ります。

「山に登る」というとよく「山登りのどのへんが面白いの?」と聞かれます。
これは本当に難しい質問で、登る人の数だけ、答えがあります。

登頂する事に意味があるという人もいれば、美しい景色に出会う事を求めたり、
危険に立ち向かう事で生きる事を実感する…という哲学的な人もいます。

私の答えはといえば、山登りはダンスやバレエのようなものだと思っています。

刻一刻と変わり続ける地形に対し、自分の手足の届く範囲の中で、いかに疲れず、かつ安全に、
そして楽しく、その状況をクリアできるか。
そんな色々な要素が凝縮されて、ある一つの体の動きがそこに現れています。

山登りが上手い人の体の動きは、本当に無駄が無く、その一連の動きに美しささえ感じてしまいます。

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建物のカタチを考えるという事は言い換えてみれば、体の動きを考える、と言えるかもしれません。

自分、他人、場所、歴史、時間、ライフスタイル。
様々な要素を引き受けて出来上がる、世界にたった1つの建築空間の中には、同じように、
世界にたった1つの体の動き方…自分だけが踊れるダンスがそこにあるのだと思います。

建築のカタチによって動きが誘発される、あるいは体の動きによって建築のカタチが決まる。

ダンスパートナーのように、建築と住む人が付かず離れずの関係になれたら、
もっと建築が愛おしくなるかもしれませんね。

そんな素敵な関係を目指したいです。

増田

川崎建築

こんにちわ、金沢です。

自分は川崎市出身なのですが、
最近工場夜景クルーズなるものを川崎市が運営していると聞きました。

都心ではあるけど、
東京と横浜に挟まれてるためそこまで大都会感もなく、
むしろそれらを支えるためにあるような川崎。
ある意味脇役・・・

その象徴としての建築が工場だと思います。
夜も大都会を支えるために動き続ける工場。
そんな脇役の輝きが人を魅せるものとなるのは嬉しい限りです。

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建築は地域の象徴となりえるか?、社会を変えれるか?
なんて難しいことは分かりませんが、
少なくとも工場で川崎は変わりそうです。

では、金沢

モノを選ぶこと

こんにちは、飯田です。

一人暮らしをするようになってモノを買う機会が一段と増えてきました。
食材から日用品、大型家電や家具。抑えられるところは知恵を振り絞ってコストダウン。
アクセントとしてちょっと頑張って買ったりします。

特に旅先で収集したテキスタイルや小物などは圧倒的な存在感で日常の風景を一新してくれます。

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そのアクセントが生活に馴染んでいくことで、生活のスタンダードが向上していくように思います。
選ぶモノに不思議な二面性を感じます。例えば、とても良い靴を買ったらその人のイメージが変わり、
一方その人は歩き方など姿勢を意識します。

そうやって成長していく、きっかけとなるモノに価値を感じます。

設計の仕事では、モノを選ぶ機会がたくさんあります。
ドアなどに付く金物類から設備といわれる水周りなど。
これらが異なれば、日々の生活の風景も大きく変わってくると思います。

何をコストダウンし、何をアクセントとするか、シーンをイメージする、、
日々の生活を向上していくモノ選びの提案を心がけていきたいものです。

捲るアツミは何処へやら

こんにちは
原です。

電車の中では、小説を読む人、漫画雑誌、参考書を広げている人など、書物に触れている人を多く見かけます。
私も職場までの行き帰り、電車の中での僅かな時間を使って、なるべく読書をする事にしています。

最近は電子端末で何かしら読んでいる人を見かけますね。かくいう私もその1人でして、、

紙の本でないとダメだという人がいますが、私はそうでもなく、電子端末での読書を嗜んでおります。

「情報に触れる」行為の1つとして“読書”を捉えると、紙だろうが液晶だろうが大して差を感じなくなってしまい、モノとしての扱い方の違いも気にならなくなりました。

電子の文字

これを寂しい事と捉えるか、幾分本質的であると捉えるかは各々の価値基準におまかせなのですが、、
(もちろん紙の本も好んで読んでます!)

読書を取り巻く環境に限らず、新しい “なにものか” はいつの間にか生活の中に浸透してきます。その都度、建築自体も色々と対応を迫られているわけなのですが…。

兎にも角にも、利害得失、その有り様を認識した上で、うまく付き合うようにしたいですね。
大切なものを失わないように…。

いつもと違う顔

こんにちは、金沢です。

自分はよく日常に溶け込んでいるものが、
ふとした瞬間に見せる違う顔にドキッとしてしまうタイプです。

異性の幼馴染を見る目が変わってしまうあの感じです。

毎日のように見かけるコンクリートブロック。
道路からの視線をさえぎるため、崖地をせきとめるため、外で使われ続けてます。

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外のもの、耐久性がある、毎日見るもの。
このイメージとは逆に住宅の内部のために活かしてみると、
そこには今までとは違う顔のコンクリートブロックがいるような気がします。

外にいるかのようなここちよさ、高い耐震性、日常の落ち着き。

固定観念をとりはらえば、
こんな素敵な顔を見せるコンクリートブロックが現れるような気がしてます。

では 金沢

あの日の街とその距離と

こんばんは 原 です。

ここのところ雨の日が多いですね…。梅雨なので仕方ないのですが…。

雨音を聞くと、以前住んでいた金沢の街を思い出します。

灰色に濁った空が印象的な北陸にあるその街は、事あるごとに雨が降り、冬は湿ったべちょべちょの雪が邪魔で仕方なく、出歩くのが億劫になる程でした。

必然的に人に会わない事が多くなり、ぼーっと一人で何かを考える時間が増えていきました。
逐一ぼやーっとしてしまう癖はきっとこの時についたに違いありません。

「耐え忍ぶ」 そんな感覚で住んでいたそんな街も、離れてみると素敵なものに溢れている贅沢な場所だったのだと、今更ながら思ってみたりしています。
二本の川の澄んだ流れも、高く伸びる松の孤独な姿も、妙に明るく静かな雪の夜も、待ち焦がれた冬の終わりも…。
ふとした瞬間に思い出すのはいつも、あの日、あの場所、あの光景です。

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場所が人に残すものは多大ですね。

一つ目、二つ目の故郷、そして今在る場所、三つの微妙な距離、隔たりの中に自分の有り様を見るような気がします。

“故郷は遠きにありて思ふもの”

あなたは“故郷”に何を見ていますか?

時間

初めまして、増田です。

今年の春から、スタッフとして建築設計に携わらさせてもらっています。
どうぞよろしくお願いします。

働き始めると、時間の流れを意識する瞬間がたくさんあります。

電車を待っている時、納期に追われている時、集中して作業をしている時。

一定に流れているはずなのに、長く感じて得したり、あっという間に感じて焦ったり。
その感じ方は、身を置く状況によって様々です。

でも損得に関わらず、時間の流れを感じる瞬間は、
私達の生活をとても豊かで濃厚なものに感じさせてくれている気がします。

あかり

では、目に見えない時間というものを、どうやって感じ取っているのでしょう。

その昔、とある建築家は言いました。

「人が時間を感じるという事は、何かそれと共に変化する媒体を介して感じるという、相対的なものである。」
媒体…うーん難しい事言いますね。

私達の身の回りにあるもので言い例えると、
時計の針の動き、定期的になる学校のチャイム、電車の往来、ドラマの始まりと終わり、などなど。
実はそこら中にころがっています。

太陽の光もそうかもしれません。

24時間365日変化し続ける太陽の光を上手く取り入れた建物は、
ただ部屋が明るいというだけでなく、
時間の流れもドラマチックに感じさせてくれるのかもしれません。

毎日、毎時間、毎分、毎秒、少しづつ表情が移ろう建築。

そんな飽きない建築がつくれたらいいなと思います。

増田

共有の在り方

こんにちわ、金沢です。

 

最近何かを共有することについて考えてます。

 

家や車、フェイスブックのシェア、ワールドカップの雰囲気だとか・・・

なにかを共有する機会って多いですよね。

 

建築だとシェアハウスが流行りつつありますが、

マンションなんかも建物自体やエントランスなんかは共有ですよね。

 

 

シェアハウスのように大きなシェアでもなく、

マンションのように小さなシェアでもなく、

初対面でも仲良い同士でも心地よいような関係性。

 

そんな人の関係性を、

ただのものである建築で生み出してみたいです。

 

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金沢

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